午後4時ごろ起床。昨日も明け方まで寝られなかったせいだが、さすがにこの時間まで寝ると元気になる。家を出て喫茶店でライターの仕事をしたあと、保坂和志『未明の闘争』を冒頭から読む。もう何度も読んでいるが、すこしずつ小説の凹凸のようなものが読めるようになってきたかもしれない。保坂和志に限らず、これまでは引用できそうな部分というか、「名句」しかわかってなかったんだと思う。それは小説を読むよりも、書くことで養われてきた気がする。
夜はゴーヤチャンプルー。小野寺が下処理等やったが、火傷したらしくて途中で選手交代した。全然苦味がなくて、うまくいったと思う。途中、「なんだこれ。うま。すごいクリーミーでふんわりした風味だ」と驚いたものがあって、でもそれが何の具材だか5秒ほどわからず、よくよく考えてみると豚肉の脂身の部分だった。

ずいぶん鮮明だった夢でも九年経つと細部の不確かさが現実と変わらなくなるのを避けられない。明治通りを雑司が谷の方から北へ池袋に向かって歩いていると、西武百貨店の手前にある「びっくりガードの五叉路」と呼ばれているところで、私は一週間前に死んだ篠島が歩いていた。」(p7)
この作品のなかで最も引用されやすく、批評もされてきた(おそらく主に佐々木敦に)冒頭だ。
たしかに主語がふたつあるのは驚くが、ここでガーンとやられてしまうために、ここから先数十ページの過激さは忘れられがちなんじゃないか。このセンテンスの圧から生み出される次のパラグラフは、「ビックリガードの五叉路」の地理的な描写だ。池袋に行ったことがある人からすれば「ああ、あそこね」となるような場所だが、小説の描写を追って頭の中で組み立てようとすると、複雑でしょうがない。だけど、これを頭の中で組み立てるうち、いつのまにかこちらには小説を受け入れるための態勢が整っている。

次に引っかかるのは、篠島と会った出来事の時制だ。とにかくいつのことなのかよくわからない。

篠島と私は西武百貨店のカルチャーセンターで一緒だった。」(p11)
篠島は三年前に異動でよそに移ったが、十年間カルチャーセンターにいていい思いをいっぱいしたから(…)」(p12)
私は十二年間も勤めていた場所なので」(p13)
しかし辞めて六年経つとその中に知った顔はない。」(p13)
篠島が後輩だということはわかるが、「私」は六年前にやめているが篠島は三年前にやめていて、、という風に書き出してようやくわかる。それは書き出さなければ混乱したままだったということだ。書かなければよかった。が、整理すればわかるということが重要なのではなく、「整理しないとわからないくらい複雑に書いてる」ということが重要なんじゃないか?

夢の話を妻の沙織に話すと、「その夢を話すと、同じ夢を他の人も見るから誰にも言わない方がいい」と言われる。この少し奇妙な(だがこれ単体ではどこかありがちな)話から保坂は何を予感していたのだろう。ここの箇所は、次のエピソードと通底している感じがする。
この後、家で一人で寝ていると明け方に玄関のチャイムが鳴り、それが誰だったのかを巡って色々思考が始まる。そこで娘=「奥さん」と二人で住んでいる隣の家の婆さんだったかもしれないということになる。その婆さんは「まだら呆け」と言われる、時々おかしな行動を取るということだ、それについて思考する「私」はまだ呆けていないというところから、思考は婆さんの若かりし頃=呆けていなかった頃に飛ぶ。

隣のおばあちゃんが若い頃はどうだったのか。奥さんはおばあちゃんとは実の母娘らしいが、おばあちゃよりも顔の幅が広くごつい顔立ちなので奥さんの顔はおばあちゃんの娘時代を想像する助けにはならない。だからといって緑道でよく見かける二十代半ばの女の子がおばあちゃんの娘時代を想像させるというわけでは全然ないが、その二十代半ばの女の子は背が高く肩幅が広く体に厚みがあり堂々としたところがまず私の目を引いた。
額が広く丸みがあり、頰も丸みがあって唇がぽっちゃりしている。全体として童顔なのだが夏なんかぴらぴらのワンピースのサンダルを履いてちょっとだらしない感じがそそられる。私はその女の子を何度目かに見たとき、隣のおばあちゃんにもぴちぴちの娘時代があったんだということを、大きなはがいっぱいに茂ったユリの木と冬に落葉したユリの木が同じユリの木であることを自分で発見して感動した子供のように発見したのだった。
」(p53-54)

おれが言いたいのは、「隣のおばあちゃんが若い頃どうだったのか。」というセンテンスで十分だということだ。この後は娘の視覚的な要素が入ってくるが、「どうだったのか。」という問いを発した時、すでに作者の中には娘-若い母のイメージが浮かんでいるんじゃないか。だから最初のセンテンスはその後のセンテンスを必要としていない。しかし、この一文がその後のセンテンスを必要としないものであるためには、その不必要な要素が書かれる必要がある。これは修辞的疑問ということではもちろんない。最初のセンテンスが書かれ、次にその細部を書かなければ、この「だろうか」は効果を生まない。作者のなかで娘-若い母のイメージがそこで把握されていたとしても、その把握を展開?現実化?するためには、次のセンテンスが必要なのだ。

よくわからなくなった。眠い。いま朝四時。